正傳寺には見どころがたくさんあり、拝観いただくだけでも楽しめます。
仏像にお庭、廊下には住職のひとり言もあり心穏やかになって帰ることができます。
茶室もございますので、休憩していただくことも可能です。 ご拝観の際は一度お電話ください。 住職が多忙の為ご連絡なしでこられますと、留守の場合がございます。
正傳寺には多数の仏像があります。
江戸時代から存在するものや、とても大きな仏像など。
仏像の拝観だけでも是非ご来訪ください。
当寺の千手観音は、平成二十二年春に村のある老人夫婦が一代寄進されたもので、住職のデザインによるもので、光背に無数の手形を押し、周りには金箔を施し、雨が降ればより輝きを増すもので、全国でもこの大きさの石像での千手観音はとても珍しいとされている。
像高は181.1センチ、等身大の六尺象として作られたのであろう。
使用木材は特定されて居ないが、楠材と思われるとのこと。
頭頂から脚もとまでを両手の袖口まで含めて一木で彫成している爲であろうが、窮屈そうな肢体となって居る。
厳しい面相もさることながら、右手を下げて左手に薬壺を持つのは珍しい。
手首から先は後補なので当初の姿は不明。
この手の形に良く似ている姿に、笠置山に巨大な光背の窪みだけを遺す弥勒如来を写したと云われる、室生の大野寺磨崖仏がある。
このことから、本来は弥勒如来像であった可能性がある。
本堂の外の階段右に銅製の布引観音ががあり、台座正面に親を想う詩が書かれている。
本来この仏像は長野県元善光寺の参道にいくつもの布引観音が道端にあった。
この仏像も近年長野の元善光寺近くの庄屋の蔵から見つかったもの。
江戸時代初期から中期にかけてのものと思われるが、本尊厨子宮殿の左に観音、右に勢至菩薩が配されている。
平安末期の延久4年(1072年)尾張国知多郡(現愛知県東海市)に生まれ、12歳の時比叡山にのぼり良賀大僧都のもと剃髪得度し天台の諸典籍を学び、23歳で真の仏道を求めんと意を決し京都大原に移り念仏三昧にひたる。
また美声と音楽才能に恵まれ、分裂していた天台声明を統合する。
46歳の時、阿弥陀如来より直授された融通念仏をひろめため諸国を行脚し念仏歓進に明け暮れ、長承元年(1132年)大原来迎院にて61年の生涯を終えた。
歓喜天は「かんぎてん」と濁点付きで予備、招福の仏、聖天さんと庶民に親しまれてはいるが、その反面対応をあやまると、禍をもたらす恐ろしい仏とも解されている。
この仏の姿のように、象面人身像で表されるが、単体で表される象と、二体抱擁象がある。
その修法にしばしば油浴が用いられる爲、金属製の小像が多く、秘仏として厨子内に奥深くあることが多くは、公開像は稀である。
本堂にはたくさんの仏像があり、
お庭は日本庭園になっており、歴代住職の墓には様々な詩が書かれております。
鐘は毎年元旦の0時に除夜の鐘突き体験も行っております。
お寺の裏に新たに茶室を作りました。
茶室の円窓からは観音様が見えお寺らしい作りになっております。